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大隅史談会

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2021.11.20

「梅北の乱」と大隅の武将一族の悲劇

「梅北の乱」は、豊臣秀吉による1回目の朝鮮出兵(文禄の役)の際に、島津家の有力家臣であり薩摩湯之尾(今の菱刈町)の地頭であった梅北国兼が、天正20(1592)年に肥後国(今の熊本県)の佐敷城を占拠する反乱です。秀吉軍が朝鮮出征中の軍事的空白を狙った大規模な決起でした。

梅北国兼は城を奪ったものの、酒宴で油断して首を討ち取られました。最近は、高校の教科書(三省堂『詳解日本史』)にも載るほど、「梅北の乱」は日本史の中で注目を浴びています。
 
梅北国兼の軍勢の中には、島津歳久配下の将兵が大勢いたため、秀吉は島津義久に弟の歳久の首を差し出せと命じました。結局、歳久は切腹、130余名の家臣等の多くが自刃しました。

反乱後の処罰は苛烈を極め、大隅の武将一族にも累が及びます。反乱の一味の中に、大姶良(今の鹿屋市大姶良町)地頭の伊集院三河守久光の家臣も大勢いたため、秀吉の命令で伊集院三河守久光以下、女、子供赤子を問はず、一族64名が皆殺しにされたのです。

幼い息子(倭子または兼丸)だけは助けたいと思った伊集院久光は、家宝の刀を倭子(わこ)に託し、護衛の家臣を一人付けて浜田の呑海庵に逃がします。しかし、家宝の刀に目がくらんだ護衛の家臣に倭子は殺されてしまいます。その殺された場所が、大姶良町の県道73号線の横の「倭子の下」という所です。林の中にある高さ10メートルほどの傾斜が急な丘の端に、少し傾いた小さな石碑(慰霊碑か?)があります。


伊集院三河守久光の墓と伝わる目立たない四角形の天然石(写真の右側の石)が、大姶良町の道路脇にあります。秀吉の逆賊として立派な墓を立てられなかったためでしょうか。
      

また、鹿屋市獅子目町にある「清水(しみず)石塔群」の中に、伊集院三河守久光の追善供養塔があります。享保9(1724)年に建てられ、久光と息子(倭子)の戒名が彫られています。この供養塔は、当時はそこにあった大恵寺の僧が久光とその息子の133回忌に建てました。


悲劇の主人公であった梅北国兼は、国許では神として祀られ、現在も鹿児島県姶良市北山に「梅北神社」が残っています。なお、肝付氏初代の兼俊の弟である兼高が梅北氏の初代です。


なお、最新の『大隅』第64号には、梅北国兼が反乱を起こした動機を探った、新留俊幸氏による”「梅北の乱」の謎”と題する論考が掲載されています。『大隅』は鹿屋市観光物産総合センターでも販売しています。



 

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