大隅史談会 | ぐるっとおおすみ

大隅半島の歴史と文化、豊富な史跡と文化財を掘り起こし、今日と未来に伝えていこうとする民間団体です

大隅史談会

newsニュース

2022.12.06

姶良郷下名人配・永代移者顕彰碑(鹿屋市吾平町)

江戸時代初期(明暦・万治)から幕末期までの約300年間、薩摩藩では、西目(薩摩半島)から東目(大隅半島)に人を半ば強制的に移動させて、農耕をさせる政策をとりました。移動の対象者は、門百姓はじめ郷士・町人にまでおよんでいます。
 
この政策を「人配」と呼び、読み方は「にんべ」または「にんばい」です。移った人々を「永代移者」と呼び、名寄帳に加え、門(かど)の籍に入れました。門とは、農民を数軒から多くても20軒程度のグループに分けて支配する制度で、そのグループには地名などからとられた門名(かどな)という名前が付けられました。
 
薩摩半島の農耕は、狭い田畑が多く密集し、大地の谷間にある水田、川端にある腰まで入り込む水田が多かったそうで、田畑の収穫は平均以下でした。当時の常食は、米10、薩摩芋20、粟30、蕎麦・麦10という割合でした。しかし現実は、米飯は盆と正月だけであったといいます。
 
江戸時代後期には、東目の人口減少と農村荒廃が激しかったので、耕地面積に対して過剰人口の西目から人配が繰り返されました。西目の口減らしもあったようです。なお、藩政以後は、自由を求めて大隅半島に移住した人が多かったそうです。
 
鹿屋市吾平町下名には、姶良川の吉田橋の近くに『姶良郷下名人配・永代移者顕彰碑』が平成9年に建立されました。永代移者が田畑の開拓に貢献し、吾平の発展に寄与した記念碑です。
碑文は『大隅』第51号(2008年)で読むことができます(「森田慶信先生追悼記」 竹之井 敏)。 
  

 
現在の吾平町の4軒に1軒は「人配」による移住者の後裔であろうと言われています。
姶良郷(今の吾平町)への移住者の場合は、薩摩半島から鹿児島湾を藩船でわたり、高須・浜田を経て瀬筒峠を越えました。この峠は、永代移者が故郷の薩摩半島を望む最後の場所であったので、「人配峠」と呼びます。その後、大姶良、南を経て姶良に着きました。この道筋を「人配街道」と呼びます。
 
人配の人たちは、それぞれに定められた門に入り、用水路開拓、新田開発、畑地開発に努め、今日の「美里(うましさと)吾平」の美田をつくりました。下の写真は、今の下名地区の水田地帯です。


 

COMMENTコメント

※本コメント機能はFacebook Ireland Limitedによって提供されており、この機能によって生じた損害に対してぐるっとおおすみは一切の責任を負いません