大隅史談会 | ぐるっとおおすみ

大隅半島の歴史と文化、豊富な史跡と文化財を掘り起こし、今日と未来に伝えていこうとする民間団体です

大隅史談会

newsニュース

2023.06.26

江戸時代の甑島から大隅への集団移住

薩摩藩では、西目(薩摩半島)から東目(大隅半島)に人を半ば強制的に移動させて、農耕をさせる政策をとりました。 この政策を「人配」と呼びます。

その他に、飢饉により食料が枯渇したため、甑島(こしきじま)から郷士(ごうし、農村に居住した武士)が、2回、大隅半島に集団移住しました。
以下の2資料を元に、この2回の集団移住を以下に紹介します。

① 橋口満著『甑島移住史』 2008年発行 ㈱高木書房

② 竹之井 敏「下甑島手打の郷士高山郷移住について」 『大隅』第38号 1995年

 
1 天明の大飢饉の時に串良に移住
天明の大飢饉というのは天明3(1783)年から天明7(1787)年に至る数年間の全国的な飢饉です。数ある飢饉の中で一番死者を出しています。特に東北地方の被害が甚大でした。
 

甑島では苗代期より虫が付き始め、頼みの甘藷までも虫が付き、その後の数回の台風や初霜で甘藷、栗、野稲、蕎麦も収穫できなくなりました。離島の甑島では、食料となるものがすぐ底をつき、食べる時期を延ばしたり、木の芽や竹の実、よもぎなどの草の葉や百合の球根など食べられるものは何でも食べて飢えをしのぎました。
 
武士階級の郷士には農民のような田畑の配当がなかったので、生活の窮状は惨憺たるものでした。そこで、 郷士年寄の春山八兵衛が、下甑島手打麓の郷士の集団移住を嘆願するため、藩に窮状を訴えたところ、大隅国串良郷へ派遣されて、移住者の住居地を探し、手打村に似た環境の串良郷有里村富ケ尾(現在の串良町有里)を選定しました。
 
天明4(1784)年3月下旬の好天気の日に、手打村の郷士47家族205人が串良に移住することとなりました。手打湾からたくさんの手漕ぎ舟で吹上浜めがけて舟出し、全員が無事に吹上浜に上陸しました。
 吹上浜から陸路幾日もかけて、新天地、串良郷有里村富ヶ尾に徒歩で向かいました。この陸路の徒歩行では、子供を含めて205人が死ぬ思いをしたそうです。富ヶ尾に到着した日は3月26日でした。移住者が到着したときには、串良郷岡崎村麓の郷士面々が紋付き袴姿で丁重かつ温かい出迎えをしてくれました。
紙幅がないので、その後の生活の様子などは割愛します。興味がある方は、橋口満著『甑島移住史』 をご覧ください。
 
なお、串良町有里富ヶ尾には「富ヶ尾移住記念碑」、移住を指揮した「春山八兵衛翁顕彰碑」があります。
   

 
2 天保の大飢饉の時に髙山に移住
甑島では、天保3(1832)年、5年、6年、7年、8年と連続して、早害、風水害、虫害、長雨のため不作、飢饉となり、住民の困窮と疲弊が甚大でした。全国的にも同様な飢饉となり、天保の飢饉と言われています。
 
この凶作により、下甑島の手打麓の郷士が藩庁へ移住を願い出た結果、天保8(1837)年11月7日に高山郷へ集団移住の藩命が下りました。移住に先立ち、下甑島郷士年寄の橋口貫一を髙山郷に派遣し、居住地を西方の背後の台地であった上之馬場(現在の肝付町前田)に決定しました。移住したのは、天保9(1838)年1月25日で、40家族、150人でした。
 
ところが当時、髙山は疱瘡(天然痘)が大流行し、移住してきた人々も、つぎつぎに罹病し、疱瘡にかかった人々は大方が命を奪われました。はじめのころは一体一体丁寧に墓穴を掘って埋葬していましたが、あとからは死者が多くて手に負えなくなり、畑の中に細長い穴を掘り、そこに、つぎつぎに埋葬されたと附近の住民は伝えています。移住に先立ち甑島から派遣された郷士年寄の橋口貫一も、移住の大任を果たしたあと、疱瘡を発病して亡くなりました。
 
苦難の日々を乗り越えて上之馬場の人々は、新天地を開拓して今日の繁栄を見るに到りました。


 

COMMENTコメント

※本コメント機能はFacebook Ireland Limitedによって提供されており、この機能によって生じた損害に対してぐるっとおおすみは一切の責任を負いません